「ご主人様(マスター)!」
ヴィンセントにそう呼ばれた青年は、少し不機嫌そうに振り向いた。
「ヴィンス、忘れたのかい?私は“お兄ちゃんって呼んで”と言ったはずだろう?」
「…じゃあジャック」
それを聞いて、今度はヴィンセントが不機嫌そうに呟く。
「ご主人様、お客様がいらしてます!」
そこに、息を切らしながら ギルバートが駆けてきた。
「今、応接室にご案内しているところです」
ジャックは一瞬面倒くさそうな顔をしたが、頷いて
「わかった。ありがとう」
と言って応接室に向かってゆっくり歩き出した。
「二人はアリスに会いに行ってあげてくれるかい?私も終わったらすぐに行くから」
歩きながら振り向いて、微笑む。
ギルバートは「はいっ」と返事をした。
一方ヴィンセントは、不満げなその顔を下を向いて隠した。
あそこに行くのは嫌だ。
自分ひとりならまだしも、ギルと二人で行ったらまたジャックを困らせてしまうかも知れないから。
「行こう?ヴィンス」

でも、ギルが歩き出すから。
僕はその後を追わずにはいられないんだ。

螺旋階段を上り終えると、猫の唸り声が聞こえてきた。
「ジャック!」
嬉しそうなアリスの表情は、二人を見るなりみるみるしぼんだ。
「…ジャックは?」
「お客様がいらっしゃったから、お相手が終わってから来るって…」
ギルバートの答えに、アリスは拗ねたように「そう」と短く言って窓の外に目をやった。
二人が何を話そうか悩んでいると、アリスが外を眺めたまま呟くように問うた。
「ねぇ…貴方たちは今幸せ?」
あまりに唐突な質問に、二人は一瞬答えを躊躇する。
するとアリスは振り向いて黒猫を抱き上げ、珍しく苦笑いした。
「きっと幸せなんでしょうね。いつもジャックと一緒にいられて…」
呟くように言う。
「……」
あたたかい家に、美味しい食事。禍罪の子と呼ばれることも無い。
何より、ギルとジャックが居る。
ヴィンセントは、自分は幸せなんだと再確認していた。
「私は、今とても楽しいわ。ジャックが来てくれるし、貴方たちも来る」
二人をちらりと見てから、アリスはソファに腰掛ける。
「でも時々、とても寂しくなるの。この意識は私のものだけど、身体は私のものじゃない。本当は、深くて暗いところで一人ぼっち…」
アリスの言っていることの意味が、二人には分からなかった。
ただ、アリスが初めて見せた悲しげな表情に驚くことしか出来なかった。
「どうして…?どうして私は……私だってもっと…」
「…?」
ギルバートが首をかしげて、不思議そうにアリスを見る。
アリスは俯いて、乱暴に頭を掻き始めた。
「私ももっと…もっと…もっと…!」
「アリス?」
ヴィンセントが振り向くと、そこにはジャックが立っていた。
「ジャック!」
途端に、ついさっきまでの言動が嘘のようにぱっと瞳を輝かせて、アリスはジャックに抱きついた。
「ははっ どうしたんだい?髪が乱れているよ?」
ジャックはそう言いながら、アリスの髪を軽く撫でる。
「ねぇジャック、今日はどこに行くの?」
見上げたアリスに、ジャックは困ったような笑顔を返した。
「そうだなぁ…。ここに来る途中、そこの森で綺麗な鳥を見かけたんだ。今日は花を摘みながら、その鳥を探そうか」
許可を求めるように、ヴィンセントとギルバートを見る。
二人が頷くより先に、アリスが「楽しそう」と言わんばかりの笑みを浮かべ、
「早く行きましょう!」
とジャックの手を引いて階段を下り始めた。
ヴィンセントとギルバートは、それを追うように階段を下りた。

「私がいない間、アリスと何か話したかい?」
ベザリウス家の屋敷に帰る馬車の中で、ジャックが二人に問う。
「えっと…今幸せかって、聞かれました」
ギルバートが答えると、ジャックは「へぇ」と相づちを打った。
「それで、君たちはなんて?」
「…あ…いえ、何も…」
再びギルバートが答えると、ジャックはくすっと笑って
「では、君たちは今幸せではないということかな?」
とからかうように言った。
「そんな!ボクはとても、とても幸せです」
ギルバートは両手を振って、慌てて取り繕う。
「ヴィンスは?」
そうジャックに問われて、ヴィンセントは照れくさそうに
「…し…幸せ…。目を隠さなくていいし…」
と小さく言った。
するとジャックは嬉しそうに「そうだろう?」と微笑んで、向かいに座るヴィンセントとギルバートの間に割り込んだ。
「君たちには、絶対“不幸だ”なんて思わせないよ」
そして二人の頭に手を置いて、わしゃわしゃと撫で回す。
「私は君たち二人が大好きだからね!」
「…!」
ジャックが僕たちを見て笑ってる。
ギルも笑ってる。
ヴィンセントは、自分の口元が緩んでいくのを感じていた。

ずっとこのまま、笑っていたいな。

心の底からそう思った。
「あ、そうだ。私はしばらく仕事で忙しくなるから、私の代わりにアリスのところに行ってあげておくれ」
ジャックはそう言ってヴィンセントを見た。
「出来れば仕事の時に、ギルバートに紅茶でもいれてもらいたいのだけれど…」
その先は、聞かなくても分かった。
「わかった。次にアリスに会いに行く時は、僕一人で行く」
ヴィンセントがそう言うと、ジャックはほっとしたような顔で
「ありがとう。アリスをよろしく頼むよ」
と言った。
「…うん」
返事をしながら、ヴィンセントは言葉に出来ない不満を感じていた。
三人の幸せな時間を、アリスが横から攫っていってしまうような、そんな気が。
「さて!今日の夕食は何だろうね。嫌いな野菜もちゃんと食べるんだよ?」
ジャックは二人の向かいに座りなおして、ギルバート、ヴィンセントと交互に見た。

アリスに僕たちの幸せは奪わせない。絶対に。

ジャックに苦笑いを返しながら、ヴィンセントはそう心に誓っていた。

―それなのに…。
『聞いたわよ?貴方のお兄さん、グレンに殺されるんですってね』
崩れていく。
『教えてあげようか?アヴィスへの扉の開き方を』
壊れていく。

『禍罪の子!』
違う、僕は悪くない。

僕はただ…。